山あいの古い一軒家に引っ越してきたばかりの春、私は毎日のように家の周囲を低空飛行する巨大なハチの姿に怯えていました。都内のマンション暮らしでは経験したことのない、あの独特の羽音を聞くたびに体が凍りつき、窓を開けることさえ躊躇われるほどでした。そんなある日、お隣に住むおばあさんの家の軒下を見上げると、グレーの妙な塊がいくつもぶら下がっているのが目に入りました。最初は「古い飾りの跡かしら」と思っていましたが、よく見るとそれは綺麗に丸められた新聞紙だったのです。挨拶がてらその理由を尋ねると、おばあさんは笑顔でこう教えてくれました。「これはね、ハチさんに『ここはもう私の家ですよ』って教えてあげるお守りなのよ」と。おばあさんは何十年もこの地で暮らす中で、ハチは先に巣がある場所を避けるという知恵を身につけ、毎年新聞紙を一缶のハチスプレーよりも大切に吊るしてきたのだそうです。私はその日のうちに、届いたばかりの地方新聞を手に、おばあさんの教え通りにダミーの巣を作り始めました。新聞紙をふわりと丸め、灰色のインクが目立つ面を表にして、タマネギが入っていたネットに詰め込みました。それを庭の勝手口のひさしと、二階のベランダの角に設置しました。作業を終えて数日、驚くべき変化が訪れました。それまで勝手口のすぐそばまで偵察に来ていたアシナガバチが、吊るした新聞紙を一瞥するような動きを見せた後、ふいと向きを変えて遠くの山の方へ飛んでいったのです。まるで「おっと、ここは先客がいるな」と判断したかのような、あまりに鮮やかな退散劇でした。その瞬間、私はこの家が本当の意味で自分の安らぎの場になったことを実感しました。以前は、ハチを見つけるたびに殺虫剤を手に握りしめ、相手を敵として排除することばかり考えていましたが、この新聞紙のお守りがあることで、ハチを殺すことなく、お互いにとって良い距離を保てるようになったのです。新聞紙に綴られた昨日のニュースが、今日は私の平和を守る盾になっている。そんなささやかな魔法が、田舎暮らしの不安を安心へと変えてくれました。今では私も、新しい新聞が届くたびに「次はもっと上手に作れるかな」と楽しみながら、来年のための準備を始めています。ハチに巣を作らせないという目的以上に、自然のルールに自分を合わせていく楽しさを、新聞紙一枚が教えてくれたような気がします。このグレーの塊が揺れる景色は、今や我が家の穏やかな日常を象徴する大切な風景となっています。